広い会場内に、本特有のどこか落ち着く香りが漂っている…-。
(本当にたくさんある……なかなか選べそうにないな)
所狭しと並んだ本に目映りしてしまう。
すると…-。
カゲトラ「お前は、どういうのが好きなんだ?」
カゲトラさんが静かに尋ねる。
〇〇「そうですね……心温まるような物語だと嬉しいです」
カゲトラ「そうか」
短く言って、視線を動かすと……
カゲトラ「なら、これなんかがいいだろうな」
カゲトラさんは、すっと私の後ろにある本棚へ手を伸ばした。
〇〇「……!」
急に近づいた距離に、鼓動が跳ねる。
ふわりと香ったのは、カゲトラさんが吸っている煙草の香りだった。
カゲトラ「ほら」
すぐに距離は元通りになり、一冊の本を差し出される。
余裕な様子の彼に、一人でドキドキしてしまっていることを恥ずかしく思いながらも……
(すごいな……こんなにすぐ見つかるなんて)
私は、本棚にずらりと並ぶ本と彼から受け取った本を見比べた。
そして……
〇〇「カゲトラさんの好きな本ですか?」
カゲトラ「そうだな。月並みだが、いい作品だと思ってる」
カゲトラさんが、私の手にする本を優しい目で見つめる。
カゲトラ「こいつは最近東雲で注目されてる新人作家の本でな。 中でも、お前ぐらいの年の女に人気があるんだ」
〇〇「本当に詳しいんですね」
カゲトラ「ああ……まあな」
曖昧な返事をしたかと思えば、カゲトラさんは辺りを見回した。
そして傍に誰もいないことを確認すると、私の耳元に顔を近づける。
カゲトラ「絵本を描く前は、小説も書いてたからな。 その影響も大きいんだろ」
彼は、なんでもないことのようにさらりと言う。
(格好いいな)
博識なカゲトラさんに尊敬と憧れを抱きながら、思わず彼のことを見つめてしまっていると…-。
カゲトラ「ん? どうした?」
顔を覗き込まれ、鼓動が大きく跳ねる。
〇〇「ご、ごめんなさい。つい見とれてしまって……。 カゲトラさん、すごく格好いいなって思ってたんです」
カゲトラ「! ……馬鹿なこと言ってねえで、行くぞ」
カゲトラさんは、私に背を向けてしまう。
けれど踵を返す前に見えた頬は、赤く染まっていて……
(かわいいな)
広い背中に似つかわしくない赤い耳を見て、そんなふうに思ってしまうのだった…-。
…
……
その後も私は、カゲトラさんと楽しい時間を過ごしていた。
カゲトラ「この辺りに並んでるのは、今特に部数が伸びている本だが……何か気になるもんはあるか?」
〇〇「そうですね……」
積まれた本を見ていると、不意に見覚えのある表紙が目に入る。
(これって、確か……)
『月夜ニ君ヲ想フ』というその小説は、東雲の有名な恋愛小説家である松影(まつかげ)が最後に執筆した作品で、今回の小説展では原稿が展示されるなど、大々的に扱われていると聞いている。
カゲトラ「そいつが気になるのか?」
〇〇「はい。確か、東雲とヴィルヘルムが舞台になっているんですよね?」
カゲトラ「ああ。とある文豪と令嬢の、恋の話だ」
(文豪と令嬢……)
(もしかして、身分違いの恋の話なのかな)
〇〇「なんだか切なそうなお話ですね」
カゲトラ「……そうかもな。 ……」
その時、カゲトラさんが不意に表情を曇らせる。
(どうしたんだろう……?)
私は少し不安を抱きながら、背の高い彼の顔を見上げるのだった…-。