執筆に煮詰まった私の元に、〇〇さんが来てくれることになった…-。
多くの時間を共にして、気づいたことがある。
(貴方にも、まさかこんな一面があったなんて……)
例えば、〇〇さんは時折楽しそうに鼻歌を口ずさむ。
けれど、どうやら本人はそれに気づいていない。
愛する人の癖はうつるとよく言うが、本当のようで……
〇〇「藤目さん、鼻歌をうたわれるんですね」
藤目「え? ああ……」
気づけば執筆中の私も、鼻歌を口ずさむようになっていた。
藤目「貴方も……」
〇〇「?」
藤目「いえ、なんでもありません」
私がそう言うと、〇〇さんは柔らかく笑った…-。
(ああ、なんて幸せな日々なのだろう……)
〇〇「藤目さん、どうぞ」
淹れたてのお茶の香りが鼻腔をくすぐる。
藤目「ありがとうございます、〇〇さん」
彼女が淹れてくれるお茶は、特別においしく感じられた。
〇〇さんは手際よく、部屋の片づけや私の世話をこなしてくれる。
〇〇「他にしてほしいことがあったら、言ってくださいね」
傍にいてくれたなら何もしてくれなくていいと思うけれど、彼女が私のために何かをしてくれる度に、それを心地よく思ってしまう。
藤目「まるで奥さんですね」
すると〇〇さんは、茶目っ気たっぷりに微笑んだ。
〇〇「旦那様、あと少しですから頑張ってくださいね」
(貴方という人は……)
私の会話に付き合ってくれる貴方を、また愛おしく感じる。
藤目「こんなにかわいい奥さんに応援されたら、頑張らないわけにはいきませんね」
彼女の存在が、私の世界を彩る…-。
…
……
(どういうことだ……)
悲恋を書くはずが、いくら考えても幸せな結末にたどり着いてしまう。
藤目「やはり、私には悲恋が書けないのだろうか……」
髪をくしゃくしゃと掻き上げながら、頭を悩ませる。
(〇〇さんと出会って、恋を知ったと思ったけれど……)
その瞬間、はっと気づく…-。
藤目「……だからか」
(私の恋愛感情は、〇〇さんとの間に生まれたものだけだ)
(だから、悲しいものなど書けない)
(……書きたくないのだ)
藤目「……ならば、今しか書けない物語だってあるはずだ」
松影のような才能にも憧れるけれど、それはもはや私ではない。
(等身大の私の恋の物語を書こう)
(それこそが、藤目という唯一無二の小説家なのではないか?)
私は、無我夢中で筆を走らせた…-。
…
……
空にうっすらと月が姿を現す頃、物語は無事に結末を迎えることができた。
〇〇「楽しみにしてます。今回は悲恋……なんですか?」
藤目「いえ、それもいいなと思っていたんですが、最終的にはやはりハッピーエンドにしてしまいました」
〇〇「そうなんですか? どうして……」
首を傾げる彼女のしぐさが愛らしく、私の心は温かな光に満たされていく。
(〇〇さん……)
私は彼女の腕を引き寄せ……
藤目「貴方に出会えてから、恋愛感情をよりリアルに表現できるようになったと思っています」
(〇〇さんと出会って、私の世界は広がった)
藤目「ただ、私にはまだ恋を失った経験がない。 だからきっと、今の私では『月夜ニ君ヲ想フ』には敵わないような気がしたんです」
(小説家としては、もっと貪欲になる必要があるのかもしれない)
(けれど、今はまだ……)
腕の中にいる愛おしいこの人を、手放すことなど考えられない。
藤目「でも今は、愛する人が傍にいる喜びを、温かな幸福を静かに綴っていきたい」
(〇〇さん……貴方はどう思っているのでしょうか?)
すると、私の気持ちに応えるように彼女の手が私の胸に触れる。
〇〇「私も、愛する人とハッピーエンドを迎えたいです」
澄んだ瞳が私を見上げた…-。
(ああ……まただ……)
彼女の優しい言葉は、私を物語の世界へと誘う。
(また、愛の物語が生まれる)
目を閉じて、彼女の耳元に唇を寄せる。
藤目「貴方がそうして私を想ってくれている幸福感が、文字になって止まらないんです。 あなたが愛おしくて、たまらない」
彼女の柔らかな頬に触れ、そっと唇を重ねる。
(まだ知らない愛の形があっても、いいだろう)
(ゆっくりと、知っていけばいい……)
私は彼女を強く抱きしめ……
愛する人が腕の中にいる、その喜びを噛みしめるのだった…-。
おわり。