翌日…-。
カゲトラさんに連れられてやってきたのは、ヴィルヘルムの郊外にある街だった。
カゲトラ「着いたぞ、ここだ」
〇〇「これって……」
(もしかして、令嬢の?)
立派な門の向こうには、小説に出てくる令嬢の家を思わせる大きな建物が建っている。
カゲトラ「気づいたみてえだな。 例の小説に出てくる、令嬢が住んでいた家だ」
カゲトラさんの話によると、今ここは宿屋になっているらしい。
カゲトラ「今日は貸し切りにしてある。好きに見て回って大丈夫だ」
私の手を大きな手が包み込み、長い指が絡められる。
その感触や小説に登場する場所へ来られたことに胸を高鳴らせながら、私はカゲトラさんと並んで門をくぐるのだった…-。
…
……
宿の中を一通り見て回った後、従業員さんの案内で宿の一室へと通される。
(わあ……)
部屋に入ってまず目に飛び込んできたのは、開かれた障子の向こうに広がる庭園だった。
〇〇「ここって、最後の別れの……?」
カゲトラ「ああ。物語の最後に、二人が別れを告げた場所だ。 ファンの間でも、特に人気の観光地でな。 お前にも見せてやりたいと思ったんだ」
カゲトラさんは柔らかく微笑むと、縁側に座って空を見上げ……
そんな彼の隣に座り、私も美しい満月を見上げる。
(あの小説は、ここで……)
別れを告げる令嬢と文豪を見守っていたのは、怖いくらいに綺麗な満月だった。
そのことを思い返していると…―。
カゲトラ「吸っていいか?」
カゲトラさんが、煙草の箱を手にしながら尋ねる。
〇〇「はい」
私が頷くと、彼は長い指で煙草を一本取り出し火をつけた。
ゆっくりと吐き出された紫煙が、美しい月夜を前に揺らめき……
カゲトラ「昨日の話の続きだが……。 俺はあの小説を、恋文だと思ってる」
〇〇「恋文……?」
再びゆっくりと煙を吐き出した後、カゲトラさんは月を見上げる。
カゲトラ「あの小説は作者である松影の書いた作品の中で、唯一結ばれなかったものだ。 そして……それを最後に、松影は執筆をやめている」
カゲトラさんは胸ポケットから取り出した携帯用の灰皿に煙草を捨て、箱から取り出した新たな煙草に火をつける。
夜の静寂が辺りを包む中、私の耳には虫の声と煙草の火が燃えるちりちりという音だけが届いていた…-。