今日も海底の波は穏やかにたゆたって、その孤独な静けさに、俺は半ばうんざりしている。
苛立ちを押さえようと、少し怯えた様子の○○の唇を指先で撫でた。
オリオン「なんなら……今すぐに俺のことしか、考えられないようにしてやろうか?」
口にしたその言葉は心からの願いで、切なる気持ちで口づけようとする。
けれど……
○○「やめて下さい!」
彼女は俺を拒み、走り去ってしまった。
オリオン「……強情な奴だ」
遠ざかる後ろ姿を見つめ、ため息を吐く。
(逃げても無駄だと言うのに)
(嫌……か)
彼女に振り払われた右手を見つめると、滅多に痛むことのないこの胸が、ズキリと痛んだ。
(涙まで浮かべて)
束の間、後悔が胸をかすめる。
(……馬鹿な)
けれど俺はその考えを振り払うことにした。
(欲しいものを手に入れようとすることの、何が悪い)
(○○だってすぐにわかる筈だ……俺の傍にいることが、自分の幸せだと)
そんなことを思いながら、遠くに小さく見える彼女の後ろ姿を追う。
その時…―。
(何を……!?)
しゃがみ込んでいた彼女が突然に立ち上がり……シャボンの壁へと駆けていく。
オリオン「○○!!」
声の限りに叫んだけれど、彼女の細い身体はシャボンの外へと飛び出していき……
オリオン「……!」
外海に飛び出すと、彼女はすぐに意識を失い潮にのまれてしまう。
遠くへ流されていく彼女を全速力で追いかけ、シャボンの中へと引き戻した。
オリオン「おい、○○!!」
地面に彼女を横たえ、蒼白な頬を叩く。
執事「オリオン様、何事ですか!?」
やってきた執事を無視して、俺は彼女に口づけ、息を与えた。
オリオン「医師を呼べ!」
事態を察した執事が、途端に落ち着きを失う。
執事「無駄です! 力を持たぬ地上人がシャボンの外に出ると、水圧に耐えきれず内臓が破壊され…―」
オリオン「わかってる! それでも医師を!」
叫ぶようにそう命じると、執事は医師を呼びに城の中へと駆け戻った。
オリオン「起きろ……おい、何とか言ったらどうなんだ!」
繰り返す口づけも、彼女に力を与えてはくれないようだ。
俺の腕の中で彼女の身体が冷たくなっていく。
オリオン「俺が嫌なんだろ? 逃げろよ……!」
(何故こんなことを……!)
(事故か? それとも……そこまで俺が嫌だったのか?)
(……もう、傍にいろなんて言わない)
(憎まれ口を叩いてもいいから)
オリオン「目を開けろ、○○……!」
強く抱きしめたその時……彼女の手に何かが握られていることに気付いた。
恐る恐る手を開くと、そこには俺が贈った貝殻のネックレスが光っている。
(これは……)
ネックレスは、俺に彼女との時間を鮮明に思い出させた。
嬉しそうに笑う顔。困ったように微笑む口元。そして先ほどの潤んだ瞳…―。
オリオン「○○……!」
胸が締め付けられて、俺はほとんど叫び出しそうになる。
千々に乱れる思考を必死にかき集めた。
(……そうだ。地上人が海底で生きる力を得る方法は二つ)
(海底人との間に子を成すか……致死量に近い量の海底人の血を浴びること……)
思い至ってからは、一瞬の迷いもなかった。
傍に落ちていた巻貝を地面に叩き付け、割れて鋭く尖った面を首筋に当て…―。
オリオン「……っ!」
痛みなど欠片も感じなかった。
ただ、首を深く切り裂く鋭い感触が思考を落ち着けていく。
オリオン「行くな、○○」
氷のように冷たい彼女の身体を強く抱きしめる。
急な出血に遠のきそうになる意識を必死に留めた。
(俺、死ぬかな……まあ、助かったとしても、お前に会うことはもうないだろう)
(力を得たら、嫌いな俺の傍にいる必要もないんだ)
(まあ、いい。自由にしてやるよ)
(……馬鹿な奴。大人しく俺を選べばよかったのに)
(そうすれば、何よりも大切にしたのに……)
自分から体温が失われていくにつれ、彼女が体温を取り戻していくのを感じる。
そろそろ視界もぼやけ、指先にも感覚がなくなってきた頃…―。
○○「ん……」
腕の中で、彼女が微かに身じろぎをした。
(……よかった)
俺はきっと笑っているのだろう。
それなのに、彼女の額に、雫が一粒落ちる。
(さよならだ、○○)
(笑わせてやれなくて……ごめんな)
いつもは耳に障る水音が、今は優しく感じられる。
きっともう二度と触れることも叶わぬ愛おしい女を、俺はまぶたの下に閉じ込めた…―。