夜空の星々が、不安そうに瞬いている…―。
バラの垣根を越えて、暗い庭園のさらに奥深くへ……私と帽子屋さんは歩みを進める。
するとその場所にあったものは…―。
○○「えっ……これは!?」
ーーーーー
○○「夢はありますか?」
マッドハッター「もちろん。いつか空でお茶会を開きたく、空飛ぶ鉄の船の研究を少々……」
ーーーーー
庭園の最奥には、いつか話に聞いた大きな鉄の船が停泊していた。
ライトに煌々と照らされている船は、この世のものとは思えない異様さだった。
○○「……」
その光景に、思わず言葉を奪われる。
マッドハッター「ふふ……驚かれましたか?いつかこんな時もあろうかと人知れず準備していたのです」
○○「え……でも前に聞いた時は、いつか空でお茶会を開きたいって」
マッドハッター「ああ、あれはまぁ……その、建前です」
目を細めて眉だけを吊り上げて、彼はおどけたように帽子を被り直す。
マッドハッター「だって当然でしょう、世界を変える力を持つ少女に再び会うのに、足もないのでは……」
○○「この船で、いったいどこへ……?」
マッドハッター「どこへでも。望むなら地の果てでも……おおっと!」
○○「……っ」
帽子屋さんは風にあおられ、ふらつきかけた私を抱き寄せた。
彼の首筋から、ふわりといい匂いが香ってくる。
○○「あ……」
そのまま私の体は、帽子屋さんに抱き上げられた。
マッドハッター「強風に、あなたが飛んでいってしまっては嫌ですから」
帽子屋さんは飛空艇の前まで私を横抱きにして進むと、入り口の前で私を降ろした。
マッドハッター「では良いですか? ○○嬢……念のため、最終確認を」
ビルの屋上を、冷たい風が叩きつける。
マッドハッター「君はこの船に一度乗ってしまえば、もうこれまでの存在には戻れない……」
○○「これまでの存在……?」
マッドハッター「そう。君がこの船に乗って私と旅に出た時……世界はまた変貌を遂げる」
それはきっと、帽子屋さんの妄想に他ならなかった。
けれど、低い声色で紡がれる彼の言葉は、どこか現実味を帯びていて…―。
マッドハッター「もちろんこの私が君を支え、時には導き、常に寄り添いましょう。 君は私にとって長い人生の果てでようやく出会えた待ち人なのですから。 さあ、その可憐な唇でお返事を…」
胸が痛くなるほどに、心臓が早く脈を打つ。
私は顔を上げて、前に立つ帽子屋さんを見つめた。
マッドハッター「……」
それを肯定と受け取ったのか、彼は美しい顔に優しげな笑みを浮かべた。
マッドハッター「さあ、○○嬢、新たなアリスとなる決心は良いですか?」
耳には風の音と、飛空艇の立てる唸り声のようなエンジン音…―。
強い風に吹かれ、帽子屋さんの衣装がたなびく。
そして差し出される、彼の手…―。
(新たな、アリス……)
その言葉が示す意味をとらえきれずに、頭の中で思考を巡らせていると…―。
○○「!」
不意に、帽子屋さんが私の腕を掴み、強く彼の方へと引いた。
夜風が吹いて、庭園の花びらがいっせいに舞い上がる。
マッドハッター「……私としたことが。 君の返事を待ち切れなかった。しかし、それほどまでに今、私の胸は期待に躍っている」
掴まれた手が、今度は彼の胸へと誘われる。
(あ……)
ドクンドクンと、帽子屋さんの鼓動が高鳴っている。
マッドハッター「わかるだろう? 今の私の感慨が」
彼は私の手を離すと、強風で乱れた私の髪を掬い、優しく耳に掻きあげた。
そして額へ、彼の唇が落とされて…―。
マッドハッター「さあ……アリス、今こそ失われた世界を探す旅に出よう……!」
夜の闇に高らかに声が響き、彼の胸元に抱き寄せられる。
次の瞬間、船は満天の星空へと飛び上がった。
街を見下ろすと、そこには何千もの人々が暮らす、何万もの灯りがちらちらと輝いていた。
(この旅が、帽子屋さんを満たすものになりますように……)
そんなことを思いながら、私の肩を抱く彼の顔を見上げた時…―。
○○「あ…―」
上空の強い風にあおられた、帽子屋さんのシルクハットが夜空に舞う。
それはやがて、星々のきらめきの中に消えていった…―。
おわり。